<五十音順・敬称略>
このメッセージは、横浜の放送ライブラリーで開催された「市川森一・上映展示会~夢の軌跡~」で紹介されたものです。
直筆で頂いたメッセージは、WEB上では、文字データで掲載しています。
森一さんへ
NHKの大河ドラマ「黄金の日日」(1978)――
森一さん、初めて会ったのは、たぶんその前年だったでしょうね。森一さんは僕の2歳上。ほぼ同世代だから、すぐに親しくなりました。
78年夏、僕は無名塾の芝居「オイディプス」の音楽担当。NHKに近い西武劇場へ、舞台稽古というものを見たことがないという森一さんをお連れしました。そのあと森一さんは演劇とも深く関わることになりますが、そのきっかけのひとつは、もしかするとあの舞台稽古だったかもしれない。だとすれば、嬉しいです。
紀尾井ホールでのドラマ・リーディング「いのちをともにした女たち―日本近代女性史―」の立ち上げに協力をいただき、「蝶々夫人」の脚本をお願いしました。それが、のちに小説「蝶々さん」に結実し、その文庫化の折には僕が解説文を書きましたね。道筋とは不思議なものです。
3年前から僕は「ながさき音楽祭」の仕事をしています。森一さんのふるさとだ。ここにいてくれたら、と何度思ったことか…。
僕は森一さん、あるいは市川さんとお呼びしていましたが、僕のことは「池ちゃん」でしたね。たった二つとはいえ、歳上の貫禄。森一さんの思い出は僕を、またたくさんの人を、今も支えつづけています。その道はこの先へも長く伸びている――それが、はっきりと見えています。
池辺晋一郎
「蘭ちゃんが小さなラーメン屋さんのお姉ちゃんなんか演ったら面白いんじゃないかなぁ!」
市川さんのそのひと言から、私の女優生活がスタートしました。
ドラマ「春のささやき」での再デビューです。
北海道の雪の中、寒さと緊張に震えながら長靴を履き、
出前のオカモチを片手に聞いたカチンコの音が忘れられません。
歌っていた頃のイメージとは全く違う観た人達が驚く様な役にしよう、と仰有るので、
それが私には妙に嬉しくて、どこか少し共犯者めいた気分でもありました。
それから4作品ほど、
ありふれた小さな街の片隅で生活する訳ありの女、
過去に傷持つ場末のクラブ歌手など、
その脚本には聖なる心と同時に時にはかなり邪な心も合わせ持つ
とても人間ぽい女性像が絶妙なユーモアと共に描かれていて、
私はまだ経験が浅いにもかかわらず、
どの役もとても楽しみながら演じていたような気がします。
夢と希望、切ない叙情や詩情が溢れた市川さんの世界感を感じながら、
与えて下さった役柄を演じられる喜び、
新しい自分、未だ見ぬ自分に出会えそうなあのわくわくする感覚を味わいたくて
私は今もずっとこの仕事に向き合っているのかもしれません。
心から感謝しています。
実はまだ市川さんが居ない事がどうにも腑に落ちずにいます。
あの優しい笑顔と、楽しい会話をどこかでずっと待っているような気持ちです。
なので、やはりお別れは無かった事にしてもらえないでしょうか。
永遠にありがとうだけ、それだけを言い続けたいと思っています。
伊藤 蘭
僕が市川先生とあったのは僕のデビュー作のTBSドラマ
「淋しいのはお前だけじゃない」でした。
大衆演劇という特殊な世界を扱った作品で、大衆演劇という世界を知らない作家さんが書くとリアリティのないつまらないものになったかもしれません。
ところが先生はあんな大御所にもかかわらず僕や兄の梅沢武生の話をものすごくよく聞いて作品を書いてくださいました。
きちんと納得するまで取材して書くという姿勢に驚き、また尊敬しました。
ただ、筆が遅くていらしたので、撮影にはかなり苦労しましたが・・・・
あの作品があったからこそ今の梅沢富美男がいるといっても過言ではありません。
なくなる数ヶ月前、最後の作品が映画化されたら僕を呼んでくださるといってくださった言葉が忘れられません。
また一緒にお仕事したかった。もっとたくさんの作品を世に残して欲しかった。
残念でなりません。
梅沢富美男
後輩脚本家にやさしい、愛にあふれたお人柄でした。
そして、華やかな雰囲気をお持ちでした。
先生がいらっしゃらなくなったら、脚本家の世界が、突然地味になってしまいましたから・・・。
最後にお目にかかった時、
「オオイシ、行儀のいいものを書いてはダメだぞ」
と、市川先生がおっしゃいました。
「奇妙なやさしさと、保守的な哲学はドラマにはいらない」とも。
亡くなる4ヵ月前のことです。
そのお言葉をご遺言と思って、いつも机に向かっています。
お作と共に、そのお人柄が、今も忘れられません。
大石 静
1983年の「霧の旗」は、私にとって忘れられないテレビドラマです。
私生活で結婚したばかりの私が、復讐心に燃える主人公を演じるのは、少し大変でした。
が、市川さんの素晴らしい脚本とせんぼんよしこさんの細やかな演出で、その世界に入っていけました。
スタッフさんとも、口をきかないようにして(後で聞いた話ですが、せんぼんさんが「しのぶちゃんにかまわないよう」にとおっしゃっていたようです。)出来あがった作品を市川さんがご覧になって、とても喜んで下さいました。
その後もお会いする度に「またドラマやりましょう!」「いいドラマを作りましょう!」と
おっしゃって下さったこと。本当に嬉しかった。
脚本と同じく、優しく、丁寧で、青年のような方でした。
約束を果たすことが出来ず悲しいです。
大竹しのぶ
心優しき映画の友、市川森一さんに、有難う、を。
山田太一さんの小説『異人たちとの夏』を原作にして、縁の松竹で映画化する事になり、市川森一さんに脚本をお願いしたのが、市川さんにとっての第一回映画脚本である。
「私は脚本ではなく、脚色にして下さい」、が市川さんの唯一の、受諾の条件だった。さてそれで僕とのシナリオハンティングで、浅草行の一日。僕は色色考えて洗い晒しのジーンズで活動的に。当日朝、所定の場所で落ち合うと、市川さんの身繕いは、何と三つ揃いのスウツに真新しいソフト。古い革鞄に革靴に肩から旧式の大型カメラ。「こうして正装で監督さんから三歩下がって一緒に映画の舞台を精査する、それが私の夢でした」。真に映画への、敬畏に充ちた、少年の様な目差しだった。
それから『淀川長治物語・サイナラ』と『その日の前に』と、都合三本の映画で御一緒したが、僕は映画は「虚構で仕組んでドキュメンタリイで撮る」と考えている。なので完成した映画は、最初の脚本とは随分と変化して了う。市川さんはその創作の過程をとても面白がって下さり、「僕の脚本のスタートと、大林さんの映画のゴールとの間に、時代の夢が忍び込めば、感喜だなぁ!」、と祝杯を。
「北海道でね、大林さん御夫妻とそっくりの、初老の夫婦が営む喫茶店がありましてね、良い物語が創れそう」。その内緒話が実現しないまま、僕の次回作は北海道。実は市川さんの御夫妻にそっくりなんだろう。素敵な夢を探して、僕は映画に旅立ちます。有難う、友よ。
2012.10.19
大林宣彦(映像作家)
市川森一 様
市川森一という名前を意識するようになったのは、中学生のときに見た『淋しいのはお前だけじゃない』にハマってからでした。それは個人的には特別なことなのに、シナリオライターとしては大勢の中の一人に過ぎないことを知りました。ドラマを見ながら、目に映る世界は現実の世界と変わらないのに、この非現実感はなんなのだろうかと思いました。それはおそらく、日常の裏側、人間の空想をも表にして描いているからだと気付きました。そのドラマには象徴的に劇中劇の舞台が出て来ますが、他のドラマでも市川さんは見えない舞台を描いている。虚実皮膜の裂け目、無意識からやって来る魔界の舞台です。我々が今ここに生きるとき、誰もがそのような魔界を内包していることを、現実からぺろりとひっくり返し、日常的に見せることのできるシナリオ作家は、市川さんが随一にして唯一であると思います。シナリオを志す者は、誰もがその日常に潜む魔界を意識せざるを得ません。それゆえ、それを魔術のように操る市川さんを、誰もが敬愛せざるを得ないのかもしれません。市川さんのような魔力は持てませんが、せめて、市川森一の世界を内包したいと願う、私もそんな一人です。
大森寿美男
市川森一さんは
“夢みる力”を信じ
テレビにロマンチックな虹を
たくさん架けた人です
平成24年11月 大山勝美
市川森一先輩へ。
市川さんの作品について論じるなんて、若輩の私にはとても出来ません。出来る日が
くるとも思えません。
ただただ、素敵なドラマたちでした。他の誰にも真似出来ません。
ドラマ界における市川さんのポジションは、誰も引き継げません。永久欠番なのだと
思います。
私達、後輩をいつも気にかけ、そして脚本家という職業について、テレビドラマ全体に
ついて、深く愛し、深く憂いてくださいました。
後輩への眼差しはいつも優しくて、人なつっこくて、お会いするだけで幸せな気持ちになりました。そして憧れました。
脚本家としても、人として、男としても。市川さんには、後輩から見た、脚本家という職業のドリームがありました。
「けいわちゃん。けいわちゃん」と、お会いすると笑顔で私のこと呼んでくださいました。本当は、よしかずって読むんです。ついに訂正することが出来ませんでした。
でも、市川さんの「けいわちゃん」という呼び方が大好きで、訂正するのを先送りにして
いました。
もうあの「けいわちゃん」が聞けないのかと思うと、寂しくてたまらないです。
市川先輩。先輩はあまりにも偉大で、到底届かないとは思いますが、一歩でも近づけるよう、後輩は頑張っていきます。
日本のドラマ界を、空から見守っていてください。あの優しい眼差しで。
岡田惠和
打ち合せがいつも飲み会になった
ボクのデタラメをこよなく理解して下さった作家でした。市川森一の愛にふれることは作品に出ることだった。だから声がかかると飛んでった。
市川さんの透明が大好きでした。
奥田瑛二
市川森一さん
初めてお会いした「港町純情シネマ」はお互いに30代ぎりぎりの時だったのですね。
その後も「淋しいのはお前だけじゃない」「モモ子シリーズ」等、素敵な作品に出演させて頂き只々感謝です。
思い出が多く迷ってしまいますが、あれは「淋しい」の放映が始まって間もない頃、街で井上ひさしさんとばったりお会いした時、「拝見してます。凄い!凄い!」と言われ、作家が他の作家の作品をこれほど興奮して褒めて語る事があるのかと驚き、又、私まで誇らしげな気持ちになった事が思い出されます。
あれから30数年、市川さんも演出された高橋一郎さんも亡くなられ淋しい限りですが、でも残された我々は前に進まなければならないのですね。
市川さんの作品で夢の様な時間を共有し、それこそ「淋しいのはお前だけじゃない」と感じている西田敏ちゃんや、岸部一徳さん、柴俊夫君達と時々は会ってあの頃のエネルギーを再認識する機会を持ちたいと思います。
ま、飲むだけと言えば言えない事もありませんが・・・
市川さん。本当に感謝しています。有り難う御座いました。
平成24年11月 小野武彦
君も逝くのか 淋しい
“傷だらけの天使”のDVD化で対談を収録した時「一緒に撮った監督たちがみんな死んじゃって…」と2人で嘆いたことがあった。工藤栄一 神代辰巳 深作欣二 そしてこんどは…
もう1本やりたかった。
恩地日出夫
市川森一さんの作品は、限りなく温かい。僕はまだ尻の青い20代から幾つもの役を書いてもらったが、その中に生きて、どれほど幸せだったかを言葉にするのは難しい。
日本アカデミー賞優秀男優賞を頂いた「異人たちとの夏」は、仕事や私生活に疲れた作家の目の前に、亡くなった父母が現れて、再生する勇気を与えてくれる作品だった。
市川さんが、「これは僕自身を映しているように感じられるよ」と優しく言って下さったことを忘れない。
あの浅草の演芸場でふっと会えた父とのシーンのように、また市川さんと出会いたい。
風間杜夫
“潮が満ちて来るとば待つしかなかとよ”
東京から来た見知らぬ男と小舟を有明の海に浮かべ
ひと時の昼下がりを過ごすのですが、転た寝(うたたね)から
目覚めた男が“海がなくなっている”と干潟を見て呟いた時の
私の台詞です。
その言葉には、その地に生きて行く強さと優しさ
そして女としての情事の後の気怠さ。
市川先生の作品で様々な役柄を演じさせて頂きましたが、
一言一言(ひとことひとこと)にその女性が生きて来た人生を
繙きたいと、いつも考えさせられる御本でした。
(TBS東芝日曜劇場「伝言」より)
かたせ梨乃
市川さんの思い出
香取俊介(脚本家・日本放送作家協会理事・日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム理事)
市川さんとはテレビ局のドラマ部員として脚本家として、さらに日本放送作家協会の執行部(市川理事長のもと常務理事)として、30数年にわたるお付き合いになる。当初はドラマ部員として市川さんに原稿催促をする役を一年近く担った。翌週収録するホンがないという状況に追い込まれ、毎週のように市川宅に泊り込んだり、渋谷の東武ホテルに「缶詰」になってもらい、一緒に構成やハコ作りをしたりした。
東武ホテルの長期滞在者として早坂暁さんがいて、市川さんと並んで原稿が遅いので有名だった。ホテルから「逃げ出す」のを防止するため、お二人にはいつも見張り役がいて、ぼくもその一人だった。テレビドラマ全盛期で、思えばある種の「いい加減さ」「自由さ」「遊びの要素」があり、それが「良き土壌」となって数々の傑作、名作が生まれたのだが……。
当時、何人かの著名な脚本家とお付き合いをさせていただいたが、とりわけ市川さんとの密な接触を通じてドラマの骨法を会得した、と思っている。もともと「純文学」指向で脚本家になろうと思ったことは一度もなかったのだが、市川さんとの密な接触を通して脚本家として生きていくことになった。その後フリーになり、大河ドラマ『山河燃ゆ』の脚本を「共同執筆」したり、日本放送作家協会では市川理事長のもと、常務理事として脚本アーカイブズの設立準備に時間を費やした。したがって脚本家としての人生は、市川さん抜きには考えられない。
人生とは出会いと別れである、とよくいわれるが、30数年前に市川さんと出会わなければ、多分ぼくの人生は別のものになっていただろう。
市川さんが亡くなられたあと、新聞社から市川さんの最後の単発ドラマの脚本集『メメント・モリドラマ集』の書評を頼まれた。じっくり読んでみて、『幽婚』をはじめ『風の盆から』などの短編はそれ自体、チェーホフの戯曲のように珠玉の文学になっていると改めて思ったことだった。いずれ市川さんの短編脚本は映像作品とは独立した「文学作品」として読まれるようになるにちがいない。
「良きドラマは良き脚本からしか生まれない」
市川さんが何度も繰り返し語っていた言葉である。それほど重要な役割を果たす脚本を市川さんはアーカイブとして後世に残していこうと国会で提言された。今、その脚本アーカイブズが実現の方向で具体的に進んでいる。
一方、横浜の放送ライブラリーでは、一部作品に限られるものの往年の名作ドラマを誰でも無料で見ることができる。これだけでもドラマ志望者や関係者に大きく貢献しているが、脚本アーカイブズが伴えばさらに大きな効果を発揮する、と市川さんと何度も語り合った。
市川さんが亡くなる2ヶ月ほど前のことであったか、島原の乱について書いた市川さんの最後の小説『幻日』について感想をのべ、近々会いましょうと電話で話したのが、結局市川さんの声を聞く最後になってしまった。
市川森一さんへ
2010年最初の仕事が市川さんとの旅雑誌の対談でした。雲上の方なのに初対面の私に「歌を聴いていますよ」と親戚の娘のように接してくださり、数ヶ月後『旅する夫婦』で音楽制作を依頼される時も「気にそぐわなければ断って下さいね」と言われ、なんと謙虚で純粋な方なんだろうと驚きました。素敵な方はいつも透明です。透明な心を持っていらっしゃるから、人の心が読め、気を配り、導くことができるのだと思います。鋭い洞察力を愛しみで包み届ける天才でした。そして、ピンクのほっぺたのかわいいお顔で今も私を見守ってくださっています。ありがとうございます♪
2012年11月
辛島美登里
若きサムライたちに光を
市川先生の熱き想いが大和となります様に
北大路欣也
20代で初めてお会いしたときの市川さんは、今の僕と同じ48才でした。なんとなく「先にはいいことがあるのかな」と思って、その後の25年を生きてきましたが、自分には一生を賭けるような何かがあったんだろうか、一生を引き換えに出来るような人との深いつながりがあったのだろうか、ここではない何処かを求めている内に何も残らない――そんな半生だったのではないかと、時々ひどくさびしくなります。
そんな時、市川さんのドラマを思い出します。シナリオ集をひもときます。
中で登場人物が呟きます。
「一晩も一生も同じ人の夢」
「人はそれぞれに、誰か他人の夢を実現させるために生かされてるのかもしれませんよ」
私は誰の夢の中に生きてるんだろう。それすらもわからないな……と思いながら頁をめくります。
そして「幸せ」という言葉にたどりつきました。
「願い星さん、みんなを幸せにして下さい。ボクたちばかりじゃなく、地球に生活している人々みんなが幸せになれるよう、見守って下さい」(快獣ブースカ「銀河へ行こう」)
僕は大学時代、友だちと一緒に初めて市川さんに会いに行った時のことを思い出しました。
「幸せってなんだと思いますか」という友だちのぶしつけな質問に、市川さんは「人を幸せにできる人間だと思いますね」とすぐに答えました。
いま、僕は思います。「人を幸せにできる人間」それは、生かされていることを受け容れることの出来る人間ではないかと。
市川さんは「誰も知らない。誰も作ろうとしないドラマ」を目指してきました。どこに踏み込んでしまったのかもわからない迷路のような場所でも、そこに灯があることに気付かせてくれる。
「私は弱い者ではない」。
その言葉が、今の私をひどく励まします。
切通理作
市川森一さんのこと
最初の出会いは、大河ドラマの脚本を依頼した1976年秋。それから日米共同制作の遺志を継いで苦闘している現在まで、即ち「黄金の日日」から「蝶々さん」に至る36年間…市川さんとは様々の仕事をしてきました。
大河の主人公を初めて商人にした「黄金」に始まり、戦争中の日系人問題にテーマを広げた「山河燃ゆ」、日本テレビ初登場への餞「インタビュアー冴子」、テレビ朝日30周年スペシャルで東欧3ヶ国との合作を実現した「ドナウの旅人」、テレビ東京の松本清張スペシャル「たづたづし」、テレビ長崎初のドラマで上海との合作「月の光」、映画では脚本家の視点が浮彫された吉永小百合・渡哲也の東映大作「長崎ぶらぶら節」、そして宣教師夫人として長崎に住み、お蝶と母と娘のような交情を持ったコレルさんから観た「蝶々さん」…主な作品は、どれも新しい何かへの挑戦でした。苦楽を共にした市川さんは、まさに戦友です。その戦友を「一言で表現してみろ」と云われたら、私は「侠気の人」を選びます。
山田太一さん原作の「異人たちとの夏」映画化に当って、脚本を依頼された市川さんは一つ條件を出しています。「脚本ではなく“脚色”のタイトルなら…」ということです。脚色とは古代中国の仕官に際する履歴書が語源で、小説家は自作の舞台化、映像化の場合格下の“脚色”しか認めようとしませんでした。その後脚本家が独自の力を向上させ、今では原作・脚本が当然のこととされている…そんな中での條件だったのです。
「市川さんは偉い。書いたものは何でも脚本…と思いがちなのにね」「いや、山田さんを尊敬しているから…素直にこの形が一番いい、と思ったんですよ」
山田さんも「市川さんに全てお任せする、と云いましたよ。市川さんなら、僕はいい」
お二人とも、本当に爽やかな表情でした。
侠気とは仁侠道のことではありません。人間として、素直にまっすぐに、仕事や人生に向き合うことです。
恐らく、市川さんは私にも侠気で対してくれたに違いない…私の「狂気」を見るに見兼ねて…。
市川さん、本当に有難うございました。
近藤 晋
僕がまだ三十歳になるかならぬかの頃、当時僕の兄貴分だったフジサンケイグループ議長、鹿内春雄さんに新橋の料理屋に呼ばれて「この方はね、将来日本一の脚本家になる方だよ。君と同郷なので君も会っておいた方が良いと思って」そう紹介され、緊張しながら市川森一先生にご挨拶をしたのを覚えている。
以後すぐに春雄さんも世を去られ、先生とはすれ違いばかりで、中々お仕事をご一緒する機会が無かったが、僕が初めて「精霊流し」という小説を書き、先生にお送りしたところ即座に葉書をいただいた。
「僕はこの物語が好きです、映像化の話が他からきても僕に任せてください」と。
先生は約束通りご尽力くださり、すぐにNHKでドラマ化された。思えばこれが最初で最後の先生との仕事だったのが無念だ。
これから沢山一緒に仕事が出来ると楽しみにしていた矢先にダンディだった先生らしく颯爽と去られた。あんなこともこんな事もご一緒できた、と思えば無念が募るばかりだ。
晩年、年越しの挨拶に先生から毎度贈っていただいた美味しい胡麻が僕はすっかり気に入って、店から取り寄せて食すようになったのだが、その胡麻の瓶を見る度に懐かしい先生の笑顔を思い出している。
早すぎる去られかたであった。寂しい。
さだまさし
市川森一さま
誰よりもお洒落で 誰よりもユーモアがあって
誰よりもサービス精神があって
誰よりも脳天気な歌謡曲を歌うのが上手くて
そして 誰よりも寂しがり屋だった 森一さん
その柔和な笑顔は ひとつの仮面
情け容赦のない過酷な現実を 誰よりもよく知っていて
人の命と心の儚いことを 誰よりもよく知っていて
決して逃げるのでなく夢という最強のツールを駆使し
音楽を鳴らし幻を出現させ 誰よりも果敢に
其れらと闘った益荒男。夢幻能の世阿弥にも
比される稀有な戯作者 市川森一
「私が愛したウルトラセブン」ではご自分を軽薄で
薄っぺらな脚本家石川新一として登場させた。私は
香川照之さんを起用し、さらに俗臭紛々に演出した。
市川さんは歓んでくれたが、今から思えば仮面の下の
奥底を少しでも描くことができなかった演出の私に
失望なさったのではないかと怖れる
副題は「夢の力」だった。
逆境にある時、私はその言葉に託された市川森一さんの
祈りにちかい深い思いを噛みしめる。
佐藤幹夫
1993年に放送されたNHK土曜ドラマ「私が愛したウルトラセブン」は「ウルトラセブン」放送時の円谷プロを再現、そしてフィクションも加えた傑作だが、私はそこで沖縄出身のチーフライター金城哲夫役を務めさせていただいた。
顔だちからして金城さんとはまったく違う出雲人の私が、なぜ琉球人を…?と、当時は思ったものだが、この市川さんのシナリオの奥底には琉球と倭を、日本とアメリカを重ねあわせながら、古代神話の時代から繋がっていた“見えなくとも確かに存在するクニ”を、M78星雲と地球とを重ねあわせて描いていらっしゃったのだった。
琉球と出雲の繋がりの深さを知ったのはここ数年のうちのことだったが、そうして長崎とも繋がって、神々の、怪獣の、宇宙人との世界を通り、現実の歴史とも向きあいながら、敵対しどちらかが従属するのではなく、ゆるやかに繋がり続ける“見えざるクニ”を探り続けることこそが平和への道だと気づかされた。
市川さんと最後にお会いしたのは、とある劇場で偶然隣の席にいらした時だった。
「長崎の、平戸に残る隠れキリシタンの儀式が300年の歴史を閉じたそうですが、それを作品化できないかと…」と私が切り出した返す刀で市川さんは、「それ、戯曲で書きましたよ。佐野さん、今度、僕のプロデュースする舞台で何かやりませんか?」と、またしても繋がった。
市川さんは早速、その戯曲「乳房」を送ってくださった。
添えられた一筆箋にはこう記されていた。
「貴君から生月島の話がでたので、びっくりしました。台本、お送りします。シアター1010で遊んで下さい。近くまた、ご連絡させて頂きます。 市川森一」
約束を果たすことは出来なかったが、今も魂は神々とともにM78星雲や神話の世界にある。
大河ドラマ「花の乱」でもお世話になった。
元より、我が師、唐十郎と共に「黄金の日日」や円谷プロの頃から浅からぬ縁がある市川さんでしたから、弟子がドラマや映画の世界でうろちょろしているのを目に留めてくださったことに、ただただ感謝するばかりです。
飲みに連れ回して下さったこと、忘れません。
ここ数年、先達たちが次々と旅立ち、目に見えざるクニでは、さぞかし賑やかな企画や作品が目白押しなことでしょう。
今しばらく、残されたこの愚弟は目に見えるクニで、見えざるクニを想いながら、可否視を越えた世界を求め、のたうち回っていたいと思います。
どうか、見守ってやっていて下さいますよう。
そして、喜んでいただけるようなお土産を、ひとつでも多く創って参りたいと思います。
ありがとうございました。
佐野史郎
在り日の市川さん
市川さんは故郷長崎を、諫早を本当に愛しておりました。故郷を題材にしたドラマを幾つも書かれている中で、私も「親戚たち」「みどりも深き」などに出演させて頂きました。
あるプロデューサーの方から、こんな話しを聞いたことがあります。「市川さんの仕事場に原稿を貰いに行くんだけど、待っている間、あなたが以前に出演した作品を見せられて、どう面白いでしょう?いいでしょうと云って、結局最後迄、一緒に見てしまうんだよ」と楽しそうに話してくれました。自分はもう何回となく観たであろう作品を、観はじめると夢中になってニヤニヤし乍ら真剣なまなざしの市川さんを彷彿します。又ある方は、脚本を催促に行ったら窓から逃走されてしまったとか…。若かりし頃のお茶目な一面も楽しく思い出されます。
人間が好きで、愛し、聴き上手で、人の話しを聴いてはよく笑い、飾らない人柄で多くの俳優から兄貴のように慕われた市川さん、いつまでも忘れません。お世話になりました。有り難うございました。
篠田三郎
拝啓 市川森一さま
会いたいです。今も目を閉じると貴兄の優しく人なつっこい顔が
「元気、柴!」と。涙が止まりません。
私が今まで俳優を続けられたのは、貴兄が時には優しく、温かく、時には厳しく
見つめ続けてくれたからこそだと思っています。
世に私を知らしめてくれた「新・坊ちゃん」ではシナリオを通して、俳優としての在り方、
そして人間としての生き方を教えてもらった気がします。
市川ワールドは未熟な役者の私にはなかなか到達できないものでしたが、
作品群に参加させて頂く内に少しずつですが本質に導いていただいたような気がします。
貴兄との思い出は数多くありますが、憶えていますか?
「淋しいのはお前だけじゃない」のスタートにあたり、
私が肝炎で入院して、インぎりぎりの時、最後の最後まで待ってくれました。
でもやはり無理との医師の判断が下った時、一通の手紙が病床に。
「ゆっくり休みなさい。淋しいのはお前だけじゃない」と。涙が止まりませんでしたよ。
貴兄はすばらしい世界を持つ脚本家であります。でもそれ以上に人間としての大きさに、
私は尊敬の念を抱かずにはいられません。市川ワールドを支えた演出家の故・高橋一郎さんとの
お二人に触れられた事は、出来の悪い役者の私にとっては生涯の宝です。淋しいです!
柴 俊夫
市川さんとの出会いは、1999年の正月ドラマ「いい旅いい夢いい女」という作品でした。既に数々の名作・大作を世に送り出していた巨匠でしたが、シナハンに同行した北海道では、茶目っ気、健啖ぶりを大いに発揮され、その気さくな人柄に安堵したこと、そして大変楽しい道中だったことを今でも良く覚えています。豪胆と繊細、重厚と洒脱、或いは正統と異端、そういう両面性を無理なく自然体で持ち得た人、体現できた人であったと思います。そして計らずも最後の作品となってしまった「蝶々さん」で再び御一緒できたのですが、深い人間愛と郷土愛が創作の根底に流れているのだなと改めて強く認識しました。物語のヒロイン“蝶”の辞世の句は、そのまま、まるで市川さんのものであるように思えてなりません。
蝶は往く 霧立つ海に 花ありと
清水一彦
思い浮かぶ顔はみんな笑顔
放送評論家 鈴木嘉一
顔を合わせると、「やあやあ」と気さくにほほ笑みを返した。インタビューをした時はいつも、ユーモアを忘れなかった。酒の席では少しかん高い声になり、よく大笑いした。公式の場のスピーチでも、にこやかに語りかけた。
在りし日の市川森一さんの表情を思い起こすと、笑顔しか浮かんでこない。一緒にいて、実に楽しい人だった。
市川さんが日本放送作家協会(放作協)の理事長を務めた10年間は、いろいろなことで声をかけられた。2006年、韓国の釜山で第1回「東アジアドラマ作家会議」が開催される際、「こういう催しがあるんだけど」と誘われた。以来、第2回を除いてずっと参加してきた。
放作協は創設50周年を迎えた2009年、記念事業として『テレビ作家たちの50年』をNHK出版から刊行し、ドラマやバラエティー番組、テレビ報道の現状を論議する連続シンポジウムも開催することになった。市川さんは理事長として「ホテルで盛大なパーティーを開くより、もっと実質的なことをしたいんで、手伝ってよ」と電話をかけてきた。市川さんの頼みなら断われない。いやむしろ、こちらから進んで協力したいという気にさせる人だった。
「ふりかえれば虹。思い浮かぶ顔はみんな笑顔。なんて素敵な人間たちと出会ってきたのだろう。どの顔も、みんな私の人生の宝だ。」
「去りゆく記」と題し、亡くなる5日前に書かれた文章の冒頭部分である。なんて素敵な言葉だろう。私もいつの日かこの世を去る間際、こう言い切れるように生きていきたいとしみじみ思う。
捧げる
市川森一さんの大いなる軌跡を偲びつつ、軌道を未来に延長し、市川さんの夢の「行方」を一緒に夢見ようと考え、財団法人“市川森一脚本賞”を設立しました。
若手脚本家の育成に熱心に取り組んでこられた市川さんの遺志を継いで頑張ろうと思います。
同い年の同志として――
2012年11月15日
プロデューサー 髙橋康夫
市川森一様
NHKの金曜ドラマ「新・坊ちゃん」の制作現場で共に育んだ知的高揚感と仲間意識――あの熱さをこの世の思い出だけに終わらせるのは勿体ないですね。いつか必ずそちらの世でも、あんな仕事をしませんか、もちろん是非是非ご一緒に。
竹内日出男
市川さんと五島うどん
数年前、国立劇場に長崎県五島列島の芸能を観に行きました。隠れキリシタンの歴史と文化に興味があったからです。
語り部の女性の五島弁は、父の故郷の佐世保を思い出させる懐かしい響きでした。また、上五島には様々な信仰の形があるということでした。多くの人が行き交った、この島らしいと感じました。
客席で名前を呼ばれて振り向くと、市川さんご夫妻の笑顔がありました。幕間に「五島うどん」をご馳走になりました。やや細目で、あご出汁が利いた、素朴で美味しいうどんでした。長崎出身の方々にとっては格別だったに違いありません。話に花を咲かせつつ、市川さんも嬉しくてたまらないといったお顔で「是非、五島に行きましょう」と言いました。
市川さんが大切に想っていらした美しい島々を、私もきっと訪ねます。だから、約束を果たすその日まで、どうか見守っていてくださいね。
竹下景子
黒のインクで書かれた原稿。
「市川森一さんの脚本だ」
演出家の堀川とんこうさんが嬉しそうに云った。僕は市川さんの文字を食い入るように見つめた。黒い文字の一字一字が胸に刻みこまれるようだった。
市川森一は天才だ、天使が万年筆を握って地上に降りてきたと、テレビ界で噂を聴かない日はなかった。
堀川さんは、全身で抱きしめるように、市川さんの脚本を読んでいた。30年以上昔の冬の寒い日だった。
その時だった。
(悪魔に魂を売ってもかまわない。凄い脚本を書きたい…)
そう思った。本当に心の底から、そう思い、呻いた。
その時から僕の書くものは、すこし変った気がする。
天使のあとをずうっと追って書いてきた。
「洋さん、僕は作協の理事長を辞めるよ」
亡くなる数ヶ月前に、六本木の作家組合の近くのステイショナリーで市川さんにバッタリ会った。
「辞めたら、沢山仕事をして下さい。市川さんの作品が見たいから」
僕がそう云うと、市川さんは微笑した。微笑だけで、病気のことは何も云わなかった。
訃報を聞いた時、黒インクの原稿のことを考えた。
美しい端正な文字だったな……と泣いた。
竹山 洋
「幽婚」という作品に出演させていただきました。
市川さんの美しいファンタジーの世界に浸ることができ、
この作品は私の大事な財産です。
寺島しのぶ
忘れた頃に
市川先生のお仕事は
忘れた頃にやってきます
1987年の銀座セゾン劇場
「楽劇あづち 麗しき魔王の国」
2005年、2006年、2007年
オーディオドラマ「古事記」三部作
2011年「蝶々さん」テレビドラマ
どのお仕事も大変むずかしく
故にどのお仕事もやりがいがあり
たくさん勉強させて頂きました
市川先生のお仕事は
忘れた頃にやってきます
だから今度は再来年あたりに
お声がかかるんじゃないかなぁと
本当にそうだったらいいなぁと
心の底から思っています
戸田恵子
市川森一さんへのメッセージ
市川森一さんは、脚本家のあこがれの星です。その眩しい輝きを、私はいつも見上げていました。
お目にかかったのは、数えるほどでした。初めてご挨拶した時、励ましの言葉をかけていただいたことは忘れません。あの時、市川さんの輝きを少し分けてもらった気でいます。その輝きを胸に、今も書き続けています。
本当にありがとうございました。
2012.11.15 中江有里
「シンイチ」のこと
市川森一のことを、「シンイチ」と呼んだのは、(たぶん)私がはじめてだったと思う。
そう呼ばれた森一は、「ナガサカ、おれはモリイチっていうんだけどなあ」と抗議したものだ。私は内心アワを食ったが、「“モリイチ”なんて田舎くさい。“シンイチ”でいいんだ」と強引に押し切った。
気がつくと、森一は、いつの間にか、自分でも「イチカワシンイチ」と名乗るようになっていた。
語れば尽きない森一との思い出の一コマである。
※ちなみに、私はシンイチの物真似が得意デス。
あるとき、酔った私は、シンイチのルス電に、「おい、ナガサカ、イチカワだ。元気か!」と入れた。何もいって来ないので、怒ったかナと思っていたら、ルス中に電話して来て、「ナガサカがボクの物真似をして困るんですヨ」といったというので大笑いしたのも懐かしい思い出の一つである。 合掌。
☆某ライターが亡くなったとき、追悼文を頼まれたら、「さいごに“合掌”と書け。カッコイイぞ」と教えてくれたのも、シンイチだった。
‘12.10.31
長坂秀佳
天国の市川森一さんへ
あなたが初めて北海道に来られた時 二人で小樽に行ったね
30歳を過ぎたばかりの我々は 黄色く色づく楡の大木の林の中に
ひっそりと佇む白い小さな図書館を いつまでも眺めていたね
澄み切った秋の空に 枯葉が鳥のように舞っていた
そしてあなたが書き上げたのが「林で書いた詩」
あなたの東芝日曜劇場での初めての作品だったね
それからあなたには 北海道を舞台にした たくさんの作品を書いていただいた
猛吹雪に包まれる小さな駅に ひとり降り立つ謎の女
ジャンプ台から空に飛び出し 鳥になった脱走犯
サハリンの町で バラの花をくれた美しい女の子
どの作品も夢のような不思議な世界だったね
そしてあなたのシナリオには何とも言えない空間があって
その隙間に音楽を入れると それが作品全体に染み込んで
水を吸った植物のように 生きいきと輝いたね
虚のかけらを大切に集めて それを紡いで真実の世界を語ろうとする
市川ドラマの真髄だね
ありがとう 市川森一さん
長沼 修
私が役者として歩み始めて、今年で47年になりました。
この時間の経過の中で私は沢山の方々と出会いました。
役者西田敏行を愛し、育て、叱咤し、励まし、刺激して下さった恩義ある方々です。中でも特出すべき人は、市川森一氏であります。
彼の脚本から編み出した作品から、常に私自信が気づかなかった新たな自分を
見つける事が出来ました。本当に役者として幸せな事であります。
上映会にて市川森一作品に参加している役者西田敏行をご覧頂いて
私の思いを汲み取って下さったら幸甚です。
市川森一さん有難うございました!
西田敏行
モモ子に会いに行きました
先週末、久しぶりにモモ子に会いに行きました。彼女がソープを廃業した後やってた東中野のスナック「石ころ」を畳んで、新大久保に移ったのは風の便りに聞いていました。モモ子と市川さんの思い出話でもしようと出かけたのです。店は客が5人も座れば満席というカウンターバーで、東中野より更に小さくなったことにちょっと胸を衝かれました。
「やあ」と声をかけると、モモ子は「おお」といってろくにこっちの顔も見ないのです。
「どうだい、ここも落ち着いたかい?」というと、「アホか、もう二年半だよ。落ち着いて根っこが生えるわよ」と相変わらずです。
「もっと早く、市川さんを誘って一緒に来りゃよかったな」というと、
「あの人はここの開店三日目に、ちゃんと顔出してくれたわよ、花もって」
「エッ、そうなの?」
「そういうとこ、外さないんだよ、あの人は。あんたと違って、気の廻る人だったよ」
と憎まれ口をたたきます。そして急にしんみりというのです。
「帰り際にさ、『また気晴らしにおいでよ、私はいつでもここにいるからさ』っていったら、『うんうん』ていいながら涙ぐんだような気がしたんだよね」
「それ第二話で市川さんが書いたモモ子のセリフだ」
「あの人、もう二度とここへ来ることはないだろうって知ってたんじゃないかな」
「お前さんがセリフを覚えていたことが嬉しかったんだろう」
「そういうセリフを書ける人だったよ──」
「──これ、市川さんから貰ったものだけど、遺品としてお前さんにあげるよ」
僕は用意して行ったノームの人形をバッグから出しました。
「それ、ヨーロッパの民話に出てくる妖精だろ。森に住んで大地を司るお爺さん」
モモ子はいたずらっぽく微笑みながら、焼酎のボトルの陰から僕が持って行ったノーム人形とまったく同じものを出したのです。白い顎ひげに赤い三角帽子のノームです。
「あの日、市川さんは言ったんだよ。俺もこんな爺さんになりたいなあって。メルヘン好きのあの人らしいわよ」
モモ子はそういって、ポロっと一粒涙をカウンターに落としました。
堀川とんこう
市川森一先生
先生と初めて旅をさせていただいたのは2008年の初秋でした。
東京から新幹線でいらっしゃった先生を豊橋駅でお迎えし、
そこから私の運転で鳳来寺山、湯屋温泉と宇連川沿いを奥へ奥へ・・・
長野県との県境にも近い愛知県東栄町に鎌倉時代から伝わる奇祭「花祭」が目的でした。
2度目の旅は2010年の春、三重県熊野市。世界遺産熊野古道、日本最古とも言われる花窟神社、陽光の降りそそぐ七里御浜の海・・・。
旅先での先生はとにかくアグレッシブ。小さな無人駅で女子高生を見つけたと思えば笑顔で近づき、姿が見えないと思うと公民館でおばあちゃんと話し込んでいる・・・夜は地元の人も巻き込んでお酒を飲み語り合いました。そんな先生の旺盛な好奇心が『花祭』、『旅する夫婦』という2本のスペシャルドラマになりました。
1975年の東芝日曜劇場『冬の時刻表』から2010年の『旅する夫婦』まで先生が弊社にお残しになった作品は全部で17本。ダントツの作品数です。
私はその最後にやっと間に合った幸運に感謝しています。
2011年弊社はその長年の功績に感謝の意を表し先生にCBC小嶋賞を贈らせていただきました。
授賞式は12月15日。その前夜に名古屋でお祝いの杯を傾けるはずだったのに・・・。
先生が病床で残して下さった最後のメッセージを、奥様が明るく高らかに読み上げて下さいました。
「・・・人々の心に食い込む良質なドラマを創りたい!との一途な信念を胸に、共に走って下さった制作現場の方々の情熱、ドラマ魂 ・・・ いつか再び立ち上がり、CBCの戦友の皆さまと、面白くも妖しい、心揺さぶるネクストワンを作れる日が来ることを夢見ております。」
いつも新しいものを貪欲に追求していた市川先生。
先生の夢に恥じないよう、私はのたうち回ります。
中部日本放送
堀場正仁
市川さんは、私の俳優の道の扉を開いて下さった恩人です。
突然のお別れとなった今、先生にご恩返しが出来ているのかどうか、
未だに戸惑う毎日です。
しかしながら、これからも感謝の気持ちと共に、
私は歩んでゆきたいと思っています。
常に、人間へのありったけの愛情を注ぎ続けた市川先生に心からの敬意を表し、
あたたかいその笑顔を決して忘れることはないでしょう。
松たか子
まあるい手
長いおつきあいだった。初対面のその日、膝の上にのせられた市川さんの手が、まあるくて可愛らしいな…と思った。ペンを持つ人の手という感じがせず、ほんわりとした市川さんの笑顔に似つかわしい、何とも優しい手だった。
城山三郎さん原作の大河ドラマ『黄金の日日』が最初の出逢いで、僕はその年すべての舞台を休み、市川さん描く「助左」に専念した。主役が歴史上の偉人ではないことやフィリピンでの海外ロケなど、大河としては前例のないことばかりで、市川さんも僕も全力投球の一年間だった。その後市川さんの書き下ろしで劇化され、歌舞伎座で上演することになり、毎晩のように市川さんが我が家へ来てくださって、お互いにプランをぶつけあい台本を練った。市川さんへの尊敬と絶大なる信頼は、一緒に過した濃密な時間によって築かれたのだと思う。
まあるい手で紡がれた幾多の物語は、市川さんの人柄そのもののように感じる。人の心の深い所に届く言葉…哀しさも可笑しさも、すべてが愛に充ちて切なく温かい。
「一緒にいい仕事をしましたね。楽しかった。ありがとう」
松本幸四郎
市川森一さんの思い出
黛りんたろう(NHKエンタープライズ)
市川さんとは、大河ドラマ「花の乱」と、ドラマスペシャル「鏡は眠らない」でご一緒させていただきました。
どちらも忘れ難い作品ですが、ここでは1997年NHKで放映した「鏡は眠らない」の事を書かせてもらいます。
このドラマは、はるか昔に天正少年使節が持ち帰った「隠れキリシタンの鏡」が現代に蘇り、ある女性と男性を強烈に結びつけてゆく、という伝奇ロマンで、まさに市川森一オリジナル作品以外あり得ない、時空を超えた、神話的で多層的な物語でした。
取材で市川さんの地元長崎に赴き、夜ごと語り合っては、物語の構想を広げていきました。ドラマの冒頭は、洞窟の中で、隠れキリシタンの神父が、ある少女に、不思議な讃美歌と共にこの鏡を託すところから始まり、その鏡が数百年を経て、長崎の或る風呂屋の脱衣場に懸けられている。風呂屋の娘が或る夜、鏡の前で催眠状態に陥り、知るはずもないラテン語の讃美歌を歌い出し、挙句包丁を持ち出し、かつて娼婦だった母親を執拗に付け回す、悪魔のような男を殺害してしまう。・・・あとは略しますが、NHKでこのようなドラマを真正面から発想し、テレビのゴールデンタイムに放映する事の出来た時代が、少し前まではあった、という事が、今となっては、信じ難くさえ思えるのです。市川さんと、あたかも少年が熱に浮かされるように夢中で語り合ったドラマの世界。テレビドラマが今よりもずっと自由で、表現の可能性に満ち溢れていたあの頃、市川さんとご一緒出来た事を、本当にうれしく思います。そして今一度、仕事がしたかった。それが出来ないことが、今、とても淋しいです。
市川森一 様
僕が今在る事を想う時、市川森一さんを避けて通る事は出来ません。「傷だらけの天使」(74年)のアキラとの出逢いは鮮烈でした。僕の内に眠っているものを見つけて花開かせ、更には枯れないものにまで昇華させてくれたのが、市川森一さんでした。「バースディ・カード」(77年)に出逢えた事も僕の宝物です。市川森一さんの才気溢れる傑作です。多くの役者達に、そして作品を観る者に、未来への夢と希望を抱かせてくれた、市川森一さんの脚本。その世界観は、いつもとても広くて深いものでした。プライベートでの、相手を飽きさせないユーモアと様々な知識もまた憧れでした。
市川森一さんとの出逢いが無ければ、今の自分が無いことは言うまでも有りません。「森一さん、心から感謝しています」
水谷 豊
市川森一さんは
ぼくの憧れであり、
目標です。
自分の名前が
市川さんと同様、
左右対称なのは、
ぼくのささやかな
誇りです。
三谷幸喜
市川先生のように
ニコニコ
キラキラ
私の目標
みやざきあおい
二度と現れないだろう脚本家 市川森一さんへの想い
「優しさを失わないでくれ。弱いものをいたわり、互いに助け合い、どの国の人たちとも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと。それが私の最後の願いだ・・・・・」。 これは『ウルトラマンA』 (1972年放映)の最終回で、エース北斗星司が最後の敵を倒した後に子供たちに送ったメッセージだったが、それはまた、作家・市川森一さんが私たちに遺した遺言のように思えるし、実に見事な予言でもあった。書かれた前年が、日中国交正常化の年だったことも手伝って、まさに40年後の今・現在・此処に生きる身として、万感胸に迫ってくるのだ。
市川脚本最大のキーワードは<夢>。 しかしその夢は、温かさや優しさを心底語るのだが、ホームドラマや予定調和のハッピーエンドとは全く違う<夢>であり、むしろ破壊的でさえあったりする。『傷だらけの天使』の二人の若者に絡む結末は絶望的なエンディングなのだが、世間の片隅でもがく彼らの残像には、むしろ優しさや温かさが鮮やかに刻みこまれている。彼らは悲しみと共に<夢>を求めて彷徨っていたのだ。
銀河ドラマ『悲しみだけが夢をみる』(1988)のセリフではこう書かれている。「どんなに記憶が薄れようとも悲しみだけは忘れてはいけない。それさえ忘れなければ、人は夢を見続けることができる・・・」。日常に溶け込む夢幻・哀切な詩情を語りかけてくるのが市川ドラマなのだ。
私が市川さんの脚本と最初に出会ったのは『夢に吹く風』(1975)。後年に一緒にやった大河ドラマ『花の乱』(1994)の第一回の副題は「室町夢幻」である。何れも予定調和の夢とは程遠いものだ。「パターン化された感動ドラマとは一線を画したい」。インタビューでの答えが、市川ドラマの本質をズバリ明かしている。
『花の乱』の時代背景は誰もが避けたがる室町時代。華々しい戦国時代に先立つ地味な時代だ。悪女と言われた主人公・日野富子を筆頭に知られたスターに乏しく逸話も少ないが、市川さんは膨大な資料を読み込んで、オリジナル50本を書き上げた。この時代に生まれた<わび・さび・きなり>を中心とする、その後の日本文化や美意識の発祥を夢幻の中に描く離れ技だった。日常に溶け込む幻想の中に、暗くも哀切な詩情が鮮やかに現れる。人間がもって生まれた悲しみや優しさを包み込みながら、既製の価値や権威を壊してゆく激しさを核として展開する。確たる現実への明晰な意識が無ければ、虚構のダイナミズムは生まれにくい。
大河ドラマでは初の試みとなった現代劇『山河燃ゆ』(1984)は山崎豊子さん原作『二つの祖国』の脚色だったが、時代劇に特化していた大河ドラマを現代劇にすることには、想像を越える大きなリスクを伴った。それだけ脚本も苦労を強いられたが、思わぬ成果も大きかった。
日系二世の兄弟が太平洋戦争で、日米の敵味方として相見えてしまう悲劇で、米軍情報兵として従軍した兄は弟を撃ってしまい、重傷を負わせるというアクシデントに見舞われる。終戦の後も長いこと和解は難しかった。
東京裁判で通訳を勤めた兄・賢治は、平和を破壊した国家同士のエゴイズムを直視し、裁判の終結と共に、自らに「有罪」を宣告して自死する道を選ぶ。市川脚本は前半で原作には無い友人らとのと青春のシーンを膨らませ、暗い時代を生きる悲しみの中に、懸命に<夢>を紡ぎ続けようとする 賢治や仲間、若者たちの生きざまを温かく、しかし哀切に描いた。
このドラマは対米関係において好ましくないとの理由で、アメリカでの放映は無かったが、この作品を機縁として運動が起こり、当時の日系一世への賠償金が支払われるという大きな進展に結実した。
市川さんが書いた大河ドラマにはもう一本『黄金の日日』があるが、これも主人公は武家という慣例を破って、主役は堺の商人・呂宗助左衛門である。しかも城山三郎さんの原作執筆と並行して市川さんが脚本を書いた。その意味ではオリジナル作品であった。
こうして見ると、市川大河ドラマは、どれ一つとして安易な道を歩んではいない。困難な主題にあえて大胆に挑戦するものばかりだった。
私には、敬愛してやまない作家がもう一人いる。市川さんの訃報に接する一年前に亡くなった故井上ひさしさんである。井上さんとは『国語元年』で新しいテレビプレイを模索しようとした。このお二人こそ、確たる現実を前に、<夢や希望>を手繰りながら、戦う武器としての想像力を全開にして、虚構の力を存分に揮える稀有の作家だった。
過日、新聞で「原爆劇 未完のリレー:井上ひさしさんから市川森一さんへ」という記事を読んで衝撃を受けるとともに納得する思いだった。
今年の4月に、市川さんの未亡人・柴田美保子さんが、市川さん愛用のiPadに遺された原爆劇の構想メモを発見した。そこには、タイトル「天使が降りる場所」/形式・朗読と浦上天主堂廃墟スライドによる「フォトリーディング」と記され、また「戦争を終わらせるための決断」という欺瞞・・・と原爆投下を正当化した米国への怒りが記され、2011/05原爆の丘というメモが残されていた。記事では浦上天主堂のある高台ではないかとされている。確かに市川さんは長崎県の出身であり、原爆劇への意欲を持っていた。そして市川さんは、井上さんが『父と暮らせば』で広島を書いた後、長崎を書かずに亡くなったことを気にしていたという。井上さんの三女で「こまつ座」代表の麻矢さんに「長崎人として僕に引き継がせて欲しい」と電話もしていたと記事にある。
井上さんは講演で、最後に書く芝居は長崎を舞台にとすると述べている。そしてタイトルは『母と暮らせば』だと語っている。
市川さんのメモにある『天使が降りる場所』に降り立つのは、今も天主堂に残っている<被爆マリア像>のことだろう。
井上ひさしさんの遺作となったのは、小林多喜二を書いた『組曲虐殺』だが、その劇中で、小林多喜二は「あとにつづくものを 信じて走れ」と歌う。それはまるで、市川森一さんにバトンタッチするぞという井上さんの遺言のように思えてくる。
この戯曲の劇中歌はこうも歌う。「駆け去るかれの うしろすがたを とむらうひとの 涙のつぶを 本棚にかれが いるかぎり カタカタまわる 胸の映写機」。
多喜二を書きながら井上さんご自身のことのようだし、市川森一さんのことをも包み込んで歌っているように思えてならない。
私の前後に齢を挟んだお二人は、最後の最後に、やはり<戦争>がもたらしたものへのこだわりを書き残したかったに違いない。温かい夢と優しさのトンネルをくぐり抜けて。私の胸の映写機はまだカタカタまわり続けている。
市川さんは「ふりかえれば虹。思い浮かぶ顔はみんな笑顔。なんて素敵な人間達と出会ってきたのだろう・・・・・」という去りゆく記を残して去った。 市川さんの訃報は井上ひさしさんに別れを告げて直ぐだった。あまりに唐突な別れだった。
市川森一さんのような稀有な作家・脚本家は、残念ながら、二度と現れることはないだろう・・・・・。
元NHKドラマ部ディレクター 村 上 佑 二
市川森一氏(本学で講義をしていただいていたので”先生”といった方がよいのか、私の先輩なので、”先輩”という方がよいのか、いろいろ考えましたが、すんなり”氏”ということにしました。)の思い出を少し書かせていただきます。
森一氏は、滅茶苦茶「お茶目」な人でした!一緒にいるといつも人を笑わせるような人でした。
学生時代、東京の諫早学生寮で、森一氏の同室に暮らしていました。彼が4年生、僕が1年生、当時は未だ洗濯機はなく、洗濯板(せんたくいた)で、汚れを擦って洗っていたものです。いつも彼のパンツを洗ったものでした。彼は、僕の洗濯物の中に、自分の洗濯物をいれておいて洗濯物が乾いた頃、すまんな!俺の分も洗ってもらって。上手いんですよ。やり方が!本当に憎めない人でした。
そういえば、その頃、川端康成の「伊豆の踊り子」が映画化されブーム呼んでいました。旧制高校の寮歌が流行ったのもその頃です。
夏、長崎へ帰省する時のこと、森一氏は、絣の和服に、青の袴と高下駄を履いて、東大の角帽をかぶり、東京駅から長崎行・急行雲仙号に乗り込み、僕にいうのです。東京駅のマイクの連絡係に、『東京大学の市川森一さん、いらっしゃいましたら、窓から手を振ってください』と云ってこいよ。3分後に、東京駅のマイクが、大音量で3回立て続けに『東京大学の市川森一さん!いらっしゃいましたら窓から手をお振りください!』、そこで森一さん、やおら窓から手を振り『東大の市川は俺だ!』と大声で叫ぶのです。
森一さんを東京駅に見送りにいった僕たち後輩連は、ホームで笑い転げました。
しかし、自分の本当の姿は、なかなか見せない人でした。若い頃に亡くなった森一さんのお母さんの命日には、赤い林檎を一つ買ってきて、蝋燭に火を灯し、その日だけは、誰も自分の部屋に人をいれずに黙想していました。きっと一人で泣きたかったのでしょう。森一さんとお母さんの林檎の話は、『夢の指輪』というドラマになっています。
彼は、学生時代はTBSのADのアルバイトをしていました。毎晩帰りが遅いのですが、どんなに遅く帰っても毎晩、シナリオを一本仕上げてから休むという生活でした。作品は、2~3個のダンボール箱に一杯になっていました。本当の意味で努力家で、極めてナイーブな神経の持ち主でしたが、それを人にはそれを見せぬところが、彼の人間としての器の大きさとでもいうのでしょうか。
森一さんが、逝って1年になりました。自分の心の滓を打ち明ける人がいなくり、未だに、心が傾いているような気がします。
長崎ウエスレヤン大学 大学長 森泰一郎
森(シン)さんの「三位一体」
森さんは日芸の一年先輩で、偶然、卒業制作の映画を手伝って以来、なぜか、
やんちゃな兄弟のようにじゃれあっていました。
女性が居ると、「三位一体」の教えを牧師のように説いていましたけど、
居なくなると一転して、お茶目に骸骨踊りを踊ってくれました。
トイレの鎖のちぎれた、大久保の狭いアパートで。
楽しかったなあ。
やがて僕は名古屋に帰り、歳月と共に狭さを感じだしていた頃、「零細事務所だけどさあ」と、東京へ引っ張ってくれたのも、森さんでした。
事務所の中島社長も人が好く、今度は三人で学生遊びの時間でした。
酔いどれた明け方に、森さんは遙か遠くへの想いを、熱く語り続けたりしました。
そんな時、名古屋の恩師の鈴木ディレクターが、もう引退するからさと、僕らのバイブルだった、永島慎二さんの「若者たち」を取り上げてくれたんです。
躊躇なく、森さんを紹介しました。即決でした。
子供番組作家と言う自分のキャリアに、一瞬たじろいだのですが、「子供心のときめきで、親父心のファンタジィ!」の出任せに、大笑いして吹っ切れた。
それからの、シチュエーション作りのアイデアは、神がかったようでした。
森さんは、名古屋のホテルに居続けて、夜毎みんなで話した。ディレクターも、作家も、出演者たちも。熱く。
僕らはいつも、どこかで、三位一体、でした。
それが、名古屋のNHKが始まって以来の、再放送希望の投書が一年以上も来続けたと言う、銀河テレビ小説「黄色い涙」です。
新しい旅の、始まりでもありました。
楽しかったなあ。
森本レオ拝
市川森一さんは天使でした。
桃井かおり
作家・市川森一さんの世界が大好きです。ありきたりな構成でなく、現実と夢の中で、つかみどころのない人間の不思議と人生の不思議が織りなす物語、そして上品で笑いを誘う洒落っ気と大胆さ、いつもわくわくしていました。
多くの脚本家、監督たちが、市川さんの生み出してきた世界に影響を受けています。ある脚本家は、自分の脚本を書く前に、必ず市川さんの脚本を書き写して、市川さんのリズム、構成などを叩き込んでから書き始めるそうです。
市川さんの肉体は消えても、市川さんの作家としての魂は後輩たちの中に生き続けています。一俳優として、市川さんのような素晴らしい作家が育ち、テレビ、映画、演劇の世界で活躍の場を与えられる事を心から待ち望んでいます。
しかし、残念です。市川さんの描く世界をもっともっと見たかった。
役所広司
もう市川さんはいない
市川森一脚本のほぼ全集に近いサイトである。こんなことはテレビドラマの世界でもはじめてのことで、それに価する作家であったことがこれで証明されるだろう。
市川さんは、晩年の数年を費して、テレビドラマの脚本や構成番組の台本を、ある時代の価値観で選別することなく、出来るだけすべてを保存しようという活動の中心にいらした。
ある時代に注目されなかった作品が、後年になって、その秘めた志に多くの人が気がつくということもあるし、放送時には平凡なデテールが時を経てその時代を豊かに語る資料として輝くということも決して少くない。同業の誰の作をも軽んずることなく、すべてを重んじようという意志は他の誰でもなく、市川さんにこそふさわしいものだったと、亡くなったことを改めて惜しんでいる。多くの人たちの賛同で、その実現にようやく一歩前へ踏み出したいま、そのアーカイブの最初の公開の試みが、市川作品に焦点を当てることであるのは、あとに残された私たちの当然の総意であり敬意である。
メランコリックで、ノスタルジックで、センチメンタルと自作を要約した作家は、同時代を生きて来た、他のどの作家とも似ない、独自の世界を築いた人だった。
楽しんでいただきたい。ただ、作品は多量で、研究者でもなければすべてを読むことは難しいかもしれない。
しかし、こうして折角全貌を知る機会を得たのだから、二、三作に接して「あ、こういう作家ね」と見当をつけないで欲しい。ひとが気がつかなかった、思いがけない名作を発見する喜びも手にして欲しい。
改めて、この場に市川さんがいないことが残念である。きっと喜んでくれているとは思うけれど――。
山田太一
市川先生と親しくお話させていただくようになったのは、日本放送作家協会の活動に参加するようになってからです。2006年に釜山で開催された、第一回の「東アジア放送作家カンファレンス」では、当時、韓国放送作家協会の理事長をされていたシン・ヒョンテク氏とともに、ドラマでアジアをひとつにしよう、と熱く語っておられました。お二人の前向きで明るい未来志向の呼びかけは、政治的に難しい現在のアジア情勢にあっても、このカンファレンスの中に引き継がれています。
市川先生は、相手が若輩者であっても初対面であっても、人との間に垣根を作らない方でした。面倒な諸々をいともやすやすと飛び越えて、笑顔で人の中に入ってこられる。するとそこに笑いの輪ができる。移動の飛行機の中や慰労会の席では、ご自分の体験談や失敗談も交えて、本当に楽しいお話をしてくださいました。あまりにみんなで大笑いしすぎて、他のお客さんからにらまれたことさえありました。
お世話になった恩返しもできないままのお別れでしたが、今は、自分に与えられた仕事をきちんとやっていくことが、先生への感謝の言葉なのだと思っています。
横田理恵
月日の流れは早く、市川先生とお別れしてから一年が経ちました。
先生は出身地の諫早市立諫早図書館の名誉館長として開館当初より図書館の充実に多大な御尽力をいただきました。来館時はお客様や職員とにこやかにお話をされ、シナリオルーム(名誉館長室)で仕事をされたり構想を練っておられたお姿が目に浮かびます。現在、諫早図書館には、先生の脚本家足跡としての資料・蔵書のすべてが揃っております。
また、先生は10年前より、将来の脚本家育成のため著名な脚本家を招聘してシナリオ講座を年4回開講され、中学生からお年寄りまでを対象として、現在も続けております。
人口14万人の諫早市は「図書館のまち諫早」と呼ばれており、3図書館1分館3図書室と環境に恵まれております。今後も市川森一先生が諫早図書館へ寄せていただいた想いを受け継ぎながら益々充実した図書館となるよう努力することを職員一同お誓い申し上げます。
市川先生、諫早図書館に対する数々のご支援有り難うございました。
諫早市立諫早図書館長 渡辺 克行