放送評論家 鈴木嘉一
【目次】
思い浮かぶのは笑顔ばかり
「市川先生が今朝、亡くなりました」。2011年12月10日午前、元NHKドラマ番組部長の金澤宏次・ユニオン映画社長からの電話を受けた時、思わず自分の耳を疑った。
市川森一はその半年前の6月初旬、ソウルで開催された第6回「アジアドラマカンファレンス」でスピーチなどを元気な様子でこなしていた。7月末に開かれた向田邦子賞運営委員会の会合で同席した時も、ユーモアを交えた口調はいつもと変わらなかった。それだけに、肺がんによる70歳の死がにわかには信じられなかった。
東京での告別式は12月21日、青山葬儀所で営まれた。葬儀委員長の山田太一、市川作品に出演してきた竹下景子、西田敏行、役所広司らの弔辞は、いずれも心にしみた。私は献花の列に並びながら、祭壇に掲げられた遺影をじっと見つめた。正装してほほ笑んでいる姿は、旭日小授章を受けた11月に撮影されたばかりと聞いた。
在りし日の表情を思い起こすと、笑顔しか浮かんでこない。顔を合わせると、「やあやあ」と気さくにほほ笑みを返し、酒席での雑談では愉快そうに大笑いした。かしこまった公式の場でも、にこやかに語りかけた。祭壇の脇に立つ美保子夫人にそのことを話すと、夫人は目にハンカチをあて、私も目頭が熱くなった。その後、NHKのベテラン・プロデューサーと立ち話をしていたら、「今にして思えば、市川さんはホン(脚本)直しのシビアな場面でも、決して声を荒げず、笑顔を絶やさなかったなあ」と悼んだ。
ふりかえれば虹。
思い浮かぶ顔はみんな笑顔。
なんて素敵な人間たちと出会ってきたのだろう。
どの顔も、みんな私の人生の宝だ。
出口で受け取った小冊子には、故人の詳細な作品歴や略歴とともに、こんな一節があった。亡くなる5日前、「去りゆく記」と題し、美保子夫人にiPadで送信した文章の冒頭部分と知り、「迫る死を前にして、これほど見事な言葉を残すとは」と胸を打たれた。
自ら提唱した「日本脚本アーカイブズ」設立運動の先頭に立ってきた市川は、実現する日を見ることもなく、〝夢の途中〟で逝った。その一周忌に際し、「デジタル脚本アーカイブズ 市川森一の世界」がウェブ上で公開される。この小論では、名脚本家の軌跡と独自のテレビドラマの世界を概観したい。なお、私は放送担当の新聞記者として20年を超すつきあいがあり、本来は「市川さん」と書くべきところだが、敬称は略させていただく。
「脚本家の時代」の一翼を担う
1970年代から80年代前半にかけて、山田太一や倉本聰、早坂暁、向田邦子、橋田壽賀子らは作家性が強いオリジナルの秀作、ヒット作を次々に書き、「脚本家の時代」の到来を告げた。テレビドラマの可能性を広げ、テレビドラマと脚本家の社会的地位を高めた。彼らの脚本は一般向けに出版され、「シナリオ文学」という新たな分野も確立された。
当時のドラマ状況を山にたとえれば、ひとり高い富士山ではなく、八ヶ岳がふさわしいのではないか。八ヶ岳は赤岳や横岳、硫黄岳などそれぞれの峰が独立しながら、全体としては変化に富み、独特の山容を形成している。山田や倉本たちの後に続く世代の旗手として、市川も八ヶ岳のように雄大な「脚本家の時代」の一翼を担ったと言える。
1982年、41歳の市川は『淋しいのはお前だけじゃない』で第1回向田邦子賞に輝いた。「テレビドラマは脚本から始まる。当時のテレビ界では『脚本家の時代』と言われていて、向田賞の創設はその象徴となった。脚本家に贈られる個人賞は初めてだったので、特にうれしかったですね」と振り返った。
自他ともに代表作と認めるTBSの金曜ドラマ『淋しいのはお前だけじゃない』は、そのころ社会問題化していたサラ金(サラリーマン金融)の借金地獄を題材にしたが、現実をなぞるようなシリアスドラマの方向には流れず、虚と実が入り交じった独自の世界を構築した。西田敏行がふんするサラ金の取り立て屋を主人公にして、膨らみ続ける借金のために家族や仕事も失った人々が大衆演劇の一座を旗揚げし、自己救済をめざす姿を人情喜劇風に描いた。毎回、『一本刀土俵入り』をはじめおなじみの芝居の名場面を登場人物たちが演じ、その回のテーマと重ねる趣向は、日常べったりのホームドラマが主流だったテレビドラマの世界に、寓話性豊かな新風を吹き込んだ。
1980年、TBSの金曜ドラマで放送された『港町純情シネマ』は、この先行作品と位置づけられる。主演・西田敏行、演出・高橋一郎とのトリオは、これから始まった。千葉県銚子市にあるうらぶれた映画館を舞台にして、しがない映写技師とその周囲の人間群像をコメディー調で描いた。懐かしい映画音楽とともに往年の名作の山場が劇中劇として用いられ、主人公が映画のヒーローになったかのように空想するシーンは、おかしくも切なく、ほろ苦い笑いを誘った。市川はこれで芸術選奨文部大臣新人賞を受賞し、〝大人のメルヘン〟と呼ばれる自分の作風を確立した。
虚と実を往き来する幻想的な作風
市川の作品には単発か連続ドラマかを問わず、「夢」をつけた題名が異様に多い。『夢に吹く風』『夢のながれ』『悲しみだけが夢をみる』『父も夢みた母もみた』『面影橋・夢いちりん』『夢帰行』『夢で別れて』『夢の標本』『いい旅いい夢いい女』……。
これほど「夢」に固執したのはなぜだろう。長崎県諌早市で生まれ育った市川は小学4年生の時、母親を結核で失った。心の奥底に埋めようのない欠落感を抱えたナイーブな少年が書物や映画などを通して、自分が置かれている現実とは違うもう一つの世界の存在と魅力に目覚め、「夢見る力」を育んでいったとしても不思議ではない。
私が好きな市川作品の一つに、NHKのドラマスペシャル『もどり橋』(1988年)がある。民話の「鶴の恩返し」と京都・戻橋の伝説を基にした三枝健起演出の異色作は、美しくて、切ない夢を紡いだ。
母親に家出をされ、父を不慮の事故で亡くした少年が、親身に世話を焼いてくれる女教師を好きになる。「早く大人になって、先生に男として向き合いたい」という少年の願いが、もどり橋で奇跡を呼ぶ。父とそっくりの青年に変身し、先生と恋に落ちる。昼間は優しい教師、夜は恋にときめく女という二面性を樋口可南子が魅力的に演じ、根津甚八も少年の心のまま大人になったもどかしさを的確に表現した。
女教師はいみじくも青年にこう言う。「子供たちと接してると判るの。不倖な子供ほど美しい夢をみてる。あなたもきっと、悲しい子供時代を過ごしてきやはった人やと思う」
この風変りなドラマは「鶴の恩返し」を思わせる残酷な結末で終わるが、少年の夢想は孤独な現実からの逃避というより、生きる支えだった。少年時代の市川にとっても、夢は心の糧だったのだろう。
虚と実を自在に往き来する幻想的な作風からは、1998年にTBS系で放送された単発ドラマ『幽婚』も生まれた。中部日本放送(名古屋市)が制作し、モンテカルロ国際テレビ祭最優秀脚本賞など五つの賞を受けた秀作である。名古屋にいる霊柩車の運転手が、急死した美容師の遺体を四国の山奥まで送り届ける。その山村には若くして死んだ女の霊を慰めるため、婚約者とかりそめの祝言を挙げさせるという奇妙な風習があった。その身代わりを演じさせられた運転手は、夢の中で死者と対話する。流れ落ちる滝の前で、役所広司と一糸まとわぬ寺島しのぶが抱き合うシーンの美しさは、今も目に焼きついている。
市川は物語が持つ力、虚構だからこそ描ける人間の真実を確信していた。ありふれた日常生活やウエットな人間関係、社会的な現実に対し、ファンタジーやメルヘンの世界を対置させる発想と方法論の根源を探るには、その新人時代にさかのぼる必要があるだろう。
日本大学藝術学部を卒業した市川はテレビのコント作家を経て、1966年に東宝・円谷プロダクション制作の『快獣ブースカ』(日本テレビ)で脚本家としてデビューした。イグアナが人間の大きさに変異した珍獣を主人公にした特撮コメディーである。20代半ばから30代初めにかけては、円谷プロの『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』『帰ってきたウルトラマン』のほか、『コメットさん』『シルバー仮面』など子ども向けの連続ドラマの執筆陣に加わった。スタッフには、実相寺昭雄監督や脚本家の佐々木守、金城哲夫らの異才がいた。
〝ウルトラマン世代〟の批評家・切通理作は『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』で、市川が怪獣や異星人に何を託したかを緻密に分析している。『ウルトラマンA(エース)』(1972年)では、最終回にこんな場面を書いた。主人公の北斗星司は無抵抗な宇宙人をいじめる子どもたちを見て、愕然とする。子どもたちは歴代のウルトラマンのお面をかぶり、「僕たち、ウルトラ兄弟でーす」と口をそろえる。さらに、無邪気な顔で「この宇宙人、死刑にするの?」と北斗に尋ねた。ここには、『ウルトラマン』シリーズで繰り返し描いてきた「地球を守るウルトラマンの正義」を自問自答する作者の鋭い視線が感じられる。
これ以降、日本テレビの『太陽にほえろ!』など大人向けのドラマにシフトしていく。市川にとって子ども向けドラマは、後に『港町純情シネマ』や『淋しいのはお前だけじゃない』などで大きく開花する〝大人のメルヘン〟の母胎となったのではないか。
多様な表現領域で多才ぶりを発揮
もっとも、市川が築いたテレビドラマの世界は、見果てぬ夢をメルヘン調で追い続ける作品だけにとどまらない。多様な表現領域に挑み、多才ぶりを発揮した。
全国の大学を席捲した全共闘運動が「70年安保」を経て退潮期に向かい、若者たちが「シラケの季節」を迎えた1970年代前半は、時代の青春像を鮮烈に描いた。ショーケンこと萩原健一と水谷豊が時代に反抗する若者を演じた『傷だらけの天使』(1974~75年、日本テレビ)は、型破りの青春ドラマとして伝説的に語り継がれている。同じ1974年、NHKで初めて執筆した銀河テレビ小説『黄色い涙』は、一部の若者たちの間で熱狂的に支持されていた永島慎二の漫画をドラマ化した。ずっと後の1993年、NHKで放送された『私が愛したウルトラセブン』と日本テレビの開局40周年記念番組となった『ゴールデンボーイズ―1960笑売人ブルース』はいずれも、「特撮の神様」と称された円谷英二や萩本欽一、坂上二郎ら実在の人物を登場させ、駆け出しの放送作家時代を振り返る自伝的な青春ドラマでもあった。
TBS系の『東芝日曜劇場』で書いた単発ドラマの佳作も忘れがたい。1993年、連続ドラマ枠に路線変更されるまで、この番組は北海道放送、中部日本放送、毎日放送(大阪市)、RKB毎日放送(福岡市)の系列局も制作に参加する単発ドラマ枠だった。市川は1974年の『林で書いた詩』(北海道放送)以来、主婦向けのホームドラマを中心とするTBS以外の4局のプロデューサーやディレクターと組み、多くの受賞作を送り出した。
本人から「たいてい白紙の状態で各局を訪れた。気心の知れたスタッフとの会話や地元の風景に触発され、現地で一気に書き上げた。各局とも僕自身のモチーフを尊重してくれて、自分にしかない作風を形にしてくれました。出演者も手作りの良さを感じ、常連になるケースが多かった」と聞かされたことがある。ここには、ものを作るうえで脚本家とプロデューサー、ディレクター、俳優たちの理想的な関係が見られる。
小樽出身の作家・伊藤整の詩から題名を取った『林で書いた詩』の場合、札幌や小樽の市内を歩き回り、木造の古い図書館を見つけた時、物語は出来上がったという。落葉の季節をバックにして、さえない司書と謎めいた都会的な美女との淡い交流と心の機微を繊細なタッチで浮き彫りにした。これを演出した長沼修とは、文化庁芸術作品賞受賞作の『サハリンの薔薇(バラ)』まで6作を作った。後に北海道放送社長に就任する長沼は、『林で書いた詩』の手書きの原稿を大切に保管していた。後年、生原稿を返却し、市川を感激させたというエピソードがある。
この作品も、市川の母校である長崎県諌早市のミッションスクールを舞台にしたRKB毎日放送の『みどりもふかき』も、ローカル局の地の利を生かしたロケ撮影と相まって透明感のある詩情を漂わせ、芸術性と文学性が高かった。中部日本放送の山本恵三ディレクターとコンビを組んだ作品は、『夢の鐘』『夢の鳥』『夢の指環』というように「夢」をつけた題名が多い。
『東芝日曜劇場』では1988年11月、「日本列島縦断スペシャル」に銘打たれた『伝言』が4週連続で放送された。北海道放送、中部日本放送、毎日放送、RKB毎日放送のディレクターが毎回、地元絡みの部分を撮り、交代で編集するという画期的な企画だった。脚本を書けるのは、4局で仕事をしてきたこの人以外にいなかったことも特筆したい。
大河ドラマで新たな地平を開拓
市川は1978年、36歳の若さでNHKの大河ドラマ『黄金の日日』を担当した。近藤晋プロデューサーによる抜擢だった。大河ドラマの主役はそれまで、武将か武士で占められた。しかも、豊臣秀吉や平清盛のような覇者か、大石内蔵助、坂本竜馬に代表される時代劇のヒーローが多かったが、『黄金の日日』はさまざまな新機軸を打ち出した。
「為政者からではなく、庶民の視点で描き、日本が世界とかかわった節目の時代を取り上げよう」と、南蛮交易で栄えた戦国時代の堺を舞台に選び、商人の呂宋(るそん)助左衛門を主人公に据えた。経済的な視点を導入するため、城山三郎が原作を書き下ろし、市川や近藤プロデューサーとともに構想を練る新方式を取った。また、フィリピンで大河ドラマ初の海外ロケをして国際性を込めたように、何から何まで初めて尽くしとなった。
主演の市川染五郎(現・松本幸四郎)をはじめ、意表を突く配役も注目された。盗賊の石川五右衛門役に起用された根津甚八は、唐十郎が率いるアングラ劇団「状況劇場」に属し、鉄砲の名手の杉谷善住坊を演じた川谷拓三はもともと東映の大部屋俳優だった。市川は助左衛門と五右衛門、善住坊らを〝戦国青春グラフィティー〟という視点で生き生きと描き、根津と川谷の人気は急上昇した。夏目雅子、竹下景子、名取裕子といった若手女優の起用も新鮮に映った。この意欲作は、25.9%の平均視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同じ)を挙げるヒットを飛ばした。
歴史と人間をダイナミックにとらえ、物語性豊かにつづる大河ドラマの執筆によって、市川は自分の世界を大きく広げた。1984年には再び、近藤プロデューサーや主演の松本幸四郎とともに大河ドラマに取り組んだ。「近代大河」路線の第1作として選ばれた山崎豊子原作の『山河燃ゆ』では、日系二世の主人公を通して太平洋戦争の時代に挑んだ。
1994年の『花の乱』は、三度目の大河ドラマとなった。大河ドラマを3回以上執筆した脚本家はほかには、中島丈博と橋田壽賀子、ジェームス三木の3人しかいない。市川は『花の乱』でも新たな地平を開拓するチャレンジングな姿勢を貫き、大河ドラマで初めて室町後期を取り上げた。八代将軍足利義政の妻で、「稀代の悪女」と言われる日野富子(三田佳子)を主人公にして、応仁の乱を中心とする下剋上の時代をオリジナルで描いた。
その当時、市川宅を訪れると、250巻以上に及ぶ『大日本史料』が本棚を占領していた。「必要なのは第8編(35巻)だけなんですが、古本屋さんはバラ売りしないという。第一の基礎資料であり、こっちの心意気を示す意味で買っちゃったんですよ」。私は700万円を投じたと聞いて、驚いた。「応仁の乱は合戦記ではなく、別姓の2人が引き起こした壮大な夫婦げんかとしてとらえたい。室町時代はある一面からだけでは描き切れない。あらゆる対立の構図がドラマの軸になっていく」とモチーフを語った。それは、男と女、夫と妻、東と西、都と地方、権力者と民衆という立場や属性の違いにとどまらず、光と影、夢と現実、現世と極楽浄土といった観念的な二項対立も指していた。
第1回は室町時代らしく能楽の場面から始まり、まだ世継ぎに恵まれない富子が夫の足利義政(市川團十郎)から思いもかけない決意を告げられる。将軍職を弟(後の義視)に譲りたいという一言が、天下大乱の遠因となる。「室町夢幻」と題したように、格調の高い語り口で現在と過去、夢とうつつを往復した。史実だけにとらわれず、説話的な要素も織り交ぜ、幻想的な作風で知られる市川ならではの導入部だった。
しかし、この作品は9か月間の変則的な放送という事情もあって、平均視聴率が14.1%と歴代最下位を記録した。「なじみが薄く、話の展開がわかりにくい」という声や視聴率の低迷は、大河ドラマで新しい時代を取り上げる冒険的な企画のリスクとして常につきまとうが、私は新鮮な題材に挑んだ意欲作であり、市川ドラマの集大成的な作品として評価したい。
聖と俗、そして長崎の風土
市川の世界には、「清濁」ではなく「聖と俗」を併せのむ戯作調の社会派ドラマと言うべき系譜もある。1982年、芸術祭優秀賞を受賞した『十二年間の嘘~乳と蜜の流れる地よ』から始まる「モモ子シリーズ」はその代表格だろう。
この人気シリーズは、社会性の強い題材にアンテナを張りめぐらすTBSの堀川とんこうの発想から生まれた。一流企業の課長がマイホームを建てるつもりだった土地を妻に内緒で売り、それが発覚して妻を殺したという新聞記事をヒントにし、狂言回しとして竹下景子をソープランド嬢に据えた。サブタイトルに「約束の地」を意味する聖書の言葉を選んだのは、クリスチャンの市川らしかった。
清純派女優の竹下がお人よしのソープ嬢を演じた話題性もあって、モモ子のキャラクターは独り歩きした。2作目が『聖母モモ子の受難』と名づけられたように、市川は一見「俗」にまみれ、市民社会からはみ出した風俗業界で生きる女に「聖」を見いだす。サラ金問題や新興宗教、大物政治家の女性スキャンダルなどのジャーナリスティックな題材を取り込んで、市民社会の偽善や偏見を戯画化し、その時々の世相を鋭く風刺した。新境地を開いたこのシリーズは15年間に8作が放送され、1997年の『最後の審判』で幕を閉じた。
この間は、社会と人間に対する深い洞察力とともに、にこやかでソフトな語り口を買われてか、テレビにレギュラー出演する機会が増えた。民放では、ワイドショーの司会やコメンテーターを務めた。市川の才気を愛する人たちの間では「文化人タレント」への傾斜を懸念する向きもあったが、私は世俗的な出来事にも旺盛な好奇心を示し、「モモ子シリーズ」などに反映させたと思っている。
市川の全体像を語るうえで、故郷である長崎の風土は抜きにできない。海外に向かって開かれ、新しい文化や文物を受け入れた開放性や先進性、日本と中国、西洋の文化が入り交じった独特の異国情緒、数々の受難劇を経て、隠れキリシタンの時代から連綿と受け継がれてきたキリスト教の精神的風土……。郷土愛が人一倍強かった市川は、諫早を舞台にし、同郷の役所広司が主演したフジテレビの連続ドラマ『親戚たち』(1985年)などで、たびたび地元を取り上げた。
私にとっては、日本テレビの名ディレクターせんぼんよしことコンビを組んだ3作目の『明日―1945年8月8日・長崎』(1988年)が印象深い。同じ長崎出身の井上光晴の小説を大竹しのぶ、樹木希林、富田靖子らの俳優陣でドラマ化した。原爆が落とされる前日の長崎を舞台にして、戦時下の日常生活を懸命に生きる庶民群像を淡々と描き、文化庁芸術作品賞を受けた。市川個人は、これと『もどり橋』『伝言』で芸術選奨文部大臣賞に輝いた。
たまたま同じ年、井上の原作を映画化した黒木和雄監督の『TOMORROW/明日』と競作の形になったが、いずれも甲乙つけがたい出来栄えだった。市川が健在だったら、浦上天主堂の被爆マリア像に象徴される長崎の悲劇をさらに掘り下げていたに違いない。
市川はNHK大河ドラマ『黄金の日日』を舞台化した1979年以降、佐藤B作が率いる劇団東京ヴォードヴィルショーの公演『水に溺れる魚の夢』や松本幸四郎主演の『ヴェリズモ・オペラをどうぞ!』などの戯曲も書いた。長年温めていた『古事記』は、NHKのラジオドラマとして実現させた。映画にも活躍の場を広げ、山田太一の第1回山本周五郎賞受賞作『異人たちとの夏』(大林宣彦監督)、なかにし礼の直木賞受賞作『長崎ぶらぶら節』(深町幸男監督)などの脚本も手がけた。
晩年は、小説にも力を入れた。自らライフワークと呼んだ〝長崎3部作〟は、北町奉行として知られる遠山金四郎の父親で、長崎奉行を務めた遠山景晋(かげみち)を主人公にした『夢暦長崎奉行』から始まる。オペラで名高い米海軍士官と芸者との悲恋を新たな視点から掘り起こした『蝶々さん』に続いて、島原の乱を取り上げた『幻日(げんじつ)』を地元の長崎新聞に連載した。『幻日』は2011年6月、講談社から刊行された。自分で脚本も書き、宮﨑あおいが主演した『蝶々さん』の前後編はその年の11月、NHKで放送された。この2作が小説とテレビドラマの遺作になったのは悲しい。
NHKでは、大河ドラマから銀河テレビ小説、土曜ドラマ、ドラマ人間模様、単発のドラマスペシャルまで、実にさまざまなドラマ枠で書いてきた。登板しなかったのは朝の連続テレビ小説くらいではないか。民放各局での仕事も含めると、特撮もの、サスペンス、刑事ドラマ、時代劇、ホームドラマ、青春ドラマ、ラブストーリー、コメディー、歴史ドラマ、文芸ドラマといった幅広いジャンルの作品を手がけるオールラウンドプレーヤーだった。しかも、オリジナルの脚本が目立つ。改めて市川の軌跡をたどると、膨大な作品の世界は「豊かなドラマの森」のように見えてくる。
陽気なオルガナイザー
2000年、還暦を前にした市川に大きな転機が訪れた。1000人前後の会員を抱える社団法人「日本放送作家協会」(放作協)の理事長に就任したのである。気苦労が多そうなトップを引き受けたのは意外と思われたが、本人はテレビの現状に強い危機感を抱き、「僕らが若いころは、各局に脚本家を育てる土壌があった。今は作家性を必要とせず、使い捨ての傾向が強まっている。グチをこぼし合うのではなく、『闘う放作協』でありたい」と強調した。
理事長の在任期間はちょうど10年に及び、精力的に活動した。2003年、国会で「膨大な脚本や放送台本が日々失われつつある。貴重な文化資産を保存し、資料として体系化することは急務」と訴え、「日本脚本アーカイブズ」設立を提唱した。放作協に日本脚本アーカイブズ特別委員会が発足し、東京都足立区の協力を得て開設された準備室では、脚本家の遺族や放送局OB、俳優たちから寄贈された台本などを保管している。
市川は放作協の同志たちと手弁当でシンポジウムや脚本展を開き、毎年、文化庁の助成による調査・研究報告書を発行してきた。収集された脚本や放送台本は5万冊を超える。2012年6月には、市川の遺志を受け継ぐ放作協やNHK、日本民間放送連盟、東京大学などの関係者が一般社団法人「日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム」を設立した。
理事長として「ドラマの市場をアジアに広げよう」と海外にも目を向け、2006年から日本と韓国、中国を中心にしてアジアの脚本家らが集う国際会議を推進してきた。私は市川に誘われて、釜山で開催された第1回「東アジアドラマ作家会議」を取材して以来、2012年7月に福岡市で開かれた第7回「アジアドラマカンファレンス」まで、2回目を除いて毎回参加し、アジア各国・地域のドラマの最新事情に接することができた。
この会議からは具体的な成果が生まれた。市川は、主催団体の一つである韓国文化産業交流財団のシン・ヒョンテク理事長と意気投合し、「韓流スターはアジアで人気があり、脚本では日本に一日の長がある。両方の〝いいとこ取り〟で新しいドラマを作ろう」と、新たな日韓連携方式による「テレシネマ7」の企画を実現させた。市川の呼びかけに応じて、大石静、北川悦吏子、岡田惠和、井上由美子、中園ミホら日本の人気脚本家7人が韓国を舞台にした物語を書き、韓国の監督と俳優によって撮影された。これらは2010年、両国で劇場公開された後、放送もされた。
市川、シン両理事長は次のプロジェクトとして、日韓中の共同制作に取り組んだ。秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の薬を探しに来日したと伝えられる徐福の連続ドラマ化である。作家の荒俣宏が原作を書き、脚本は日韓中で分担するという構想だった。2011年、シンに続いて市川も他界したが、2人がまいた種は着実に育ちつつある。
放作協は創設50周年を迎えた2009年、記念事業として『テレビ作家たちの50年』をNHK出版から刊行し、ドラマやバラエティー番組、テレビ報道の現状を論議する連続シンポジウムなども開催した。私は市川から「ホテルで盛大なパーティーを開くより、もっと実質的なことをしたいんで、手伝ってよ」と声をかけられ、協力した。私に限らず、市川からフランクな口調で頼まれると、ついつい引き受けてしまう人は多かったのではないか。
ある時、「自分の仕事で忙しいはずなのに、そんなに一生懸命になれるのはなぜか」と尋ねると、「理事長を引き受けてから、自分のためだけではなく、人のために動く心地良さを知りましてね」とほほ笑んだ。市川は陽気なオルガナイザーとしての資質も発揮した。
後続の世代に及ぼした影響
市川が下の世代に与えた影響は大きい。日本大学藝術学部の後輩でもある三谷幸喜は市川の死を受けて、朝日新聞の連載エッセー『三谷幸喜のありふれた生活』でこう追悼した。
市川さんの描く「ファンタジーとしての現代劇」は、まさに自分が描きたかった世界であり、「市川森一」は、それ以来僕の目標になった。(中略)連続ドラマ「王様のレストラン」は「淋しいのはお前だけじゃない」の僕なりの変奏曲。大衆演劇の芝居小屋を立て直す物語を、潰れかけたフレンチレストランの再建話に置きかえた。(中略)今も、そしてこれからも市川さんは僕にとってもっとも尊敬する脚本家だ。今でも僕のもっとも好きな大河ドラマは「黄金の日日」であり、もっとも影響を受けたドラマは「淋しい~」である。
向田賞を受賞した宮藤官九郎もまた、市川作品の影響を受けた脚本家の一人である。ギャラクシー大賞を受けたTBSの『タイガー&ドラゴン』(2005年)が、『淋しいのはお前だけじゃない』の大衆演劇を落語の世界に置き換えたのは間違いない。大御所の落語家に西田敏行に充てた配役は、市川へのオマージュとも受け取れる。
名作の域に入った『淋しいのはお前だけじゃない』は2011年6月、東京・赤坂ACTシアターで舞台化された。中村獅童が主演し、脚本は蓬莱竜太、演出はマキノノゾミだった。市川のドラマとその方法論は後進の演劇人たちをも刺激し続け、まったく色あせない。
一方では、故人を偲んで、新進気鋭の脚本家を対象とする「市川森一脚本賞」を創設する動きが起きている。大河ドラマ『黄金の日日』などを一緒に作り、市川を敬愛する元NHKプロデューサーの高橋康夫、渡辺紘史たちが中心になり、一般財団法人「市川森一脚本賞財団」を設立するための資金を広く募っている。
市川の魂は郷里の諫早に帰り、永遠の眠りについている。『幽婚』のクライマックスとなる夢のシーンで、主人公の男(孝行)は死んだ女(佐和)とこんな会話を交わした。
佐和(声)「私を忘れないで……」
孝行(声)「いつまでも一緒にいてくれ……いつまでも」
佐和(声)「ひと夜も一生も同じ人の夢……過ぎ去ればみんな思い出……私を思い出して……あなたの中で私は生きたい……」
市川森一さん、私たちはあなたと作品をけっして忘れない。
鈴木嘉一 プロフィール
鈴木嘉一(すずき・よしかず)
1952年千葉県生まれ。放送評論家・ジャーナリスト。埼玉大学教養学部非常勤講師(メディア論)。75年早稲田大学政治経済学部を卒業、読売新聞社に入社。文化部、解説部、編集委員などを経て2012年3月退社。1985年から放送界の取材を続け、文化庁芸術祭賞審査委員や放送文化基金賞専門委員、日本民間放送連盟賞審査員などを務める。日本記者クラブ会員。放送批評懇談会理事。著書は『大河ドラマの50年』(中央公論新社)、『桜守三代 佐野藤右衛門口伝』(平凡社新書)など。